錦糸町のむかし

町の古老や先輩たちから聞いた話や残された文章から、書き記します。何分時が経っていますので、不確かな記事や間違いがありましたらご指摘ください。

第一話 錦糸町の名称の由来

本所区史には次のように記されています。「錦糸町はもと錦糸堀と称した。錦糸堀は、文政町書上(1818~29) (町名の由来などを書いてある文書)によると“岸堀”で、堀通りには御材木蔵があり、その岸通りに沿った町並みであった。大部分は武家地であったが、明治初年(1868)に上地(政府に返還した土地)となってから、これを併合して一町となし、付近にあった錦糸堀にちなんでこの町名とした。明治2年(1869)には、元亀井戸村飛地字矢場耕地を編入した。しかし、総武鉄道が敷かれ、町内にかなりの部分がその敷地となったので、民家の多くは失われた。」一説には、この地に三味線・琴の糸をつくっていた家が何軒かあったことから、その名がついたともいわれます。地元では、このように言う人が多いようです。また朝夕の日の光に掘割の水面が美しく照り映える光景が、その名前の由来だという説もあります。近隣町名に柳島、石原、亀戸など海辺に関連した地名が多いことからしても岸堀説が正しいと考えます。これらの地名は、この一帯が隅田川河口のデルタ地帯として、町のすぐ側に海岸線が伸びていたことを物語っています。古い地図によると、錦糸1,2,3丁目の大部分は元は太平町であり、楽天地あたりは錦糸堀になっていましたが、その後、現在のような錦糸町の区割りが出来上がりました。

第二話 旧千葉街道

隅田川から見て竪に流れる川であることから、「堅川」の名がつけられましたが、その堅川に沿って隅田川から東へ、錦糸町、亀戸、小松川を通って、千葉へ通じた街道が旧千葉街道です。現在では、「馬車通り」の名称で知られています。明治18年(1885)に、菊川に馬車会社ができて、この道を走って営業をしたのがその名の由来です。いまでは、この堅川の上を首都高速道路小松川線が通っています。堅川にたいして、長崎橋・江東橋の下を流れる「大横川」(当初は横川)、亀戸との境を流れる「横十間川」は、隅田川と平行に流れる川であるところから、その名が付けられました。大横川はいまでは菊川橋以北が埋め立てられ、堅川もまた一部が埋め立てられて、それぞれ親水公園となって市民に親しまれています。これらの河川工事は、下町一帯が低地であったので、必要なかさ上げのための土砂を供給すると、江戸が発展するにつれて、ひんぱんに起こった大火で需要が急増した木材の運搬に欠かせない水路の造成および防火という一石三鳥の役割を担って実施されたのです。私たちの脳裏には、これらの多くの河川がいまでも東京大空襲の悲惨な思い出の舞台として残っています。

第三話 おいてけ堀

 本所七不思議の一つに、有名な「おいてけ堀」伝説があります。とある堀で、魚をいっぱい釣り上げた浪人がさて帰ろうと立ち上がったとたん、背中がぞくぞくするような不気味な感じがし、堀の中から、「おいてけ、おいてけ」と声がかかる。ひょっと声の方を見ると、怪しい目玉がぎょろり。強そうに見えた浪人も、あわてて逃げていったというお話ですが、この伝説の出所について。岡本綺堂は、ある老人から聞いた話として、「本所のどこかにある悪旗本があり、毎夜、いかさま博打を行っては、そこを通りかかった者を誘い込み、あげくの果ては、すってんてんにして身ぐるみ剥いでしまうので、この名が出た」という説を紹介しています。ちなみに、置き去りにする場合にいう「置いてきぼり」という言葉も、もとはこの話から出たということです。置いてけ堀があった所は、錦糸町、江東橋、亀戸などいろいろな場所が取り沙汰されておりますが、特定の堀のことではないと思われます。民俗学者の柳田国男の『妖怪談義』に、おいてけ堀について次のような考察があります。魚釣りの帰りなどに、「置いて行け、置いて行け」と路傍から呼びかける声のオバケが出る話は、川越にもあるが、だいたいが江戸以外では稀にも聴かない話で、狐や猫はよく携えている食物を奪うというけれど、闇の横合いから声がかかるということはない。声をかける各地の怪はむしろ反対に「もって行け」というのが普通で、伝わっている形は、正直な爺様が夜の山路などを通ると、しきりに路傍から「飛びつこうか、引っ付こうか」と呼ぶ物がある。あまり何度もいうので、「飛びつくなら、飛びつけ」とつい答えると、どさっと肩の上へ重い物が乗り掛かった。家へ担いで戻って灯の下で拡げてみると、金銀いっぱいの大きな袋で、これによって長者になる。それを羨んだ隣の欲張りな爺が同じ時刻に同じ所を通ると、例のごとく声がかかる。これに応えて「引っ付くなら、引っ付け」というや否や、どさっと背一面に落ち被さったのは松脂であった。こういう話が僅かずつ形を変えて、いまもまだ多くの女子供の記憶のなかから涌き出てきているといっています。柳田が言わんとしたのは、江戸のおいてけ堀の話なども、昔話というよりは、ある時期に作られたお話ではなかったろうかということだろうと思います。

第四話 本所割下水

かって現在の江戸東京博物館のところから東の方へ通じていた堀のうち、長崎橋(江東橋の一つ上の橋)までを「南割下水」、その先の錦糸町の北側を通って、亀戸との境にある横十間川までを(錦糸堀)といっておりました。いまでも道路を掘り下げると土留めの杭がでてきます。以前、駅のホームから操車場の北側に見えていた堀は、木材の運搬のたけに後に掘られた水路で、錦糸堀はそのすぐ北側にあったのですが、昭和の初期に埋め立てられてしまいました。割下水とは道路の真ん中に掘られた水路で、ちょうど道を縦に分割しているので、この名があります。普通、割下水といえば南割下水のことを指します。一方「北割下水」は厩橋から東へ延びていた水路/道路で、大正年間に埋め立てられてしまいましたが、いまは(春日通り)と呼ばれています。堅川に懸かる橋は、「一之橋」から「六之橋」までありました。六之橋は堅川が中川に流れ込むところに懸かる橋で、現在は(新六之橋)と呼ばれています。ほかにも、「三つ目通り」(水戸街道)、「四つ目通り」(錦糸町駅前通り)などの通りの名前として、当時の名残を留めています。これらは、時代小説や芝居ではお馴染の名前で、「三人吉三廓初買」には「割下水伝吉内の場」がありますし、「文吉元結」にも割下水の場があります。だが、それにしては、その正確な位置を知らない人が多いようです。当時、この辺りは、武家の下屋敷の多いところでした。錦糸町一丁目には「津軽稲荷」がありますが、それは、もとここに津軽候の屋敷があった名残です。南割下水の通りは、現在は「北斎通り」と呼ばれるようになりました。北斎記念館をつくる計画もあります。いまでは、地場産業を育成する立場から、官民一体となって、ファッションの通りとしての発展を目指している地域でもあります。別紙地図でご覧なれるように、このあたりには、葛飾北斎、河竹黙阿弥、勝海舟など歴史に名高い人物が数多く住んでいました。

第五話 錦糸堀が歌舞伎の舞台になっている

 思いかけなかったことですが、歌舞伎芝居の一幕のもなっています。河竹黙阿弥作「身光於竹功」(みのひかりおたけのいさおし)という芝居の第二幕に、「錦糸堀浪宅の場」として出てくるのです。ちなみに、第一場は「伝馬町板間の場」、最後の第三幕が「天王橋敵討の場」となっています。元治元年(1864)に守田座で初演され、その後、一、二度上演された記録が残っています。あらすじを申しますと、伝馬町の板間家に奉公しているお竹は美人であるうえに、たいへん人にも好かれる評判の娘ですが、錦糸堀に住む、病気がちで浪々の身の上の父橋本次郎衛門とともに悪人に脅かされていました。困り果てた彼女は、自ら吉原に身を売っても父を助けようと決心します。そこを主人の板間勘右衛門に助けられ、さらに悪人の手にかかった父の敵討ちをするというお話です。第二幕の浪人宅の場面は、とりわけ、わびしく寂しい所として設定されています。これは余談ですが、筆者は、錦糸堀が書物か芝居のなかに出てこないかどうかが知りたくて、まず割下水に住んでいたことがある黙阿弥の作品を集めた本を調べてみました。彼の作品の数は360あまりにのぼるうえに、場面ともなればその数倍はあります。探しあぐね、半分諦めかけていたところ、ある一冊の本の最後のページをめぐりましたら、そこに折り畳んだ地図がついていました。それは、早稲田大学演劇博物館が発行した、黙阿弥の作品群のなかからそれぞれの場面が設定されている場所をしるした地図でした。彼の作品に出てくる隅田川の場面では、大川端の場、本所割下水の場などが有名ですが、なかに、いまの錦糸公園がある場所にこの浪宅の場として印がつけてあったのです。さっそく黙阿弥の収集では名の通った演劇博物館へ行ってみましたが、残念なことに現在改修中でした。それではと、国立劇場へ電話して尋ねますと、演劇関係を中心としたたいへん立派な国立劇場図書館があって、そこに備えてある20巻もある歌舞伎台本のなかから苦もなく捜し出してくださいました。錦糸堀の泥をほじくり返しているうちにダイアモンドを見つけたような心持で、思わず「こいつは春から縁起がいいわえ」と三人吉三の名せりふが出てきました。これで、錦糸堀という名前もやっと本所の歴史のなかで市民権を得たことになります。ことのついでに、浮世絵のなかにもでてこないかとずいぶん探しましたが、割下水と柳島、亀戸の天神様はあるものの、残念ながら錦糸堀は見当たりません。その代わりに、本所七不思議の一つ、おいてけ堀の絵がありました。

第六話 錦糸堀の鮒

別紙の通りの魚拓が山形県鶴岡市にある「出羽庄内釣りバカ会館」にありました。こんど錦糸町駅前に完成した再開発ビル群の一番東側にある、高層ビル・アルカイースト21が庄内の殿様・酒井右京亮の屋敷があったところですから、その屋敷の庭から釣り上げた真鮒だったかもしれません。筆者としては、さっそく見に行きたい思いにかられましたが、とりあえず現地へ電話を入れて、いろいろ教えていただきました。私も釣りは好きで、水郷などへ出掛けては、釣り宿で真鮒の魚拓をよく見せてもらいましたが、40㎝もある魚拓はまだ見たことはありません。戦後、盛んになったヘラブナ釣りでは、50㎝くらいまでの魚拓を見ることもありますが、江戸時代にいるはずもなく、第一、ヘラブナはもっと幅の広い姿をしています。最古の魚拓だとのことですが、あるいは日本記録であるかもしれません。これだけの大物を釣り上げるには、かなりよくしなる釣竿が必要ですが、庄内地方は昔から良い竹竿が取れたところだそうで、庄内竿として世に有名でした。江戸時代はのべ竿で、つなぎ竿になったのは明治になってからだそうです。なかんずく、糸、針とも古くから技術的にも優れたものがあったのでしょう。釣り場所として、深川・錦糸町とあるのも面白い。錦糸堀あたりは深川と本所の境界線上であったことが、これでよく分かります。この魚拓は錦糸町にとっては、まさに重要文化財にも当たる逸品だと申せましょう。山形へ行く機会がありましたら、是非寄って見てくることをお勧めします。鶴岡市はまた。本所や深川を舞台に数々の作品を書いた藤沢周平の故郷でもあります。彼の小説の舞台として登場する海坂藩が、出羽荘内藩(庄内藩)を模してつくられたことは、小説好きの人ならご存知でしょう。明治維新までほぼ250年続いた荘内藩を領した酒井家の居城「鶴ケ岡城」の城下町が現在の鶴岡市です。

 

 

 

 

 

 

 

 

第七話 国産マッチ最初の工場

両国高校そばの京葉道路際に、鉄柵に囲まれたマッチ発祥の記念碑がたっています。創始者の清水誠は明治3年フランスに渡ってマッチの製造法を修得し、8年に帰朝すると、港区三田四国町の吉井友実邸に仮工場を建ててマッチの製造を始めました。翌9年、大久保利通の後援を受けて、現在記念碑が立っている地、本所柳原町に新遂社(しんすいしゃ)という会社を設立して、赤燐マッチ(安全マッチ)の製造を本格的に開始したのです。その業績を讃え、この地域の氏神である亀戸天神社の境内に清水誠記念碑があります。神社に向かって左側に立つ大きな石碑がそれです。本所柳原町は、元神田柳原(浅草橋辺)が寛文の年(1661~72)に大半が火除地となり、その代地としてできた町です。後述の伊藤左千夫の住居があった本所茅場町と、本所病院があった本所松代町の三つを併せてできたのが、現在の江東橋1~4丁目です。

第八話 駅前は牧場だった

駅の南側、現在の駅前広場の辺りはかって牧場でした。さらに太平町にも牧場があったといわれても、いまの賑やかな町並みからはとても想像がつきませんが、本当のことです。名作「野菊の墓」の作者で、歌人としても有名であった伊藤左千夫は、明治18年に上総の国殿台村(いまの成東市)から上京、まず京浜間の牛乳店で働き、明治22年、本所茅場町3-18(現在の南口駅前)に居を構えて搾乳業を始めました。牧場の名前を「茅の舎」といいました。当時としては新興の産業で、労働はなかなか厳しいものがありましたが、かなり利益の大きい事業であったようです。労苦をいとわず懸命に働いた左千夫の生活には、相当のゆとりができていました。後年、彼が歌と小説の道に入って、文壇の雄となり数多くの後進を育てたのは、そんな経済的背景があったからでしょう。左千夫を歌の道に導いたのは、太平町で同じ搾乳業を営んでいた伊藤並作です。明治26年のことでした。35才の時に正岡子規を尋ね、その後、「ホトトギス」に「野菊の墓」を発表します。映画「野菊のごとき君なりき」で有名な小説です。この作品によって、彼の文壇での地位が確立しました。明治36年、彼の住居で「馬酔木」(あしび)の刊行が始まります。41年「馬酔木」の後を受けて蕨真(わらびまこと)が創刊した「アララギ」の発行所を引き受け、翌年には編集の責任者になりました。こうして、茅場町の家から、多くの歌や小説が生まれたのでした。しかし、明治46年、この一帯を襲った大洪水のために廃業を余儀なくされ、発行の事業も蕨桐軒に譲って亀戸に移り、そこで亡くなりました。亀戸天神の東の方にある普門院という寺の奥まった場所に、伊藤左千夫と彫った墓が残っています。(土屋文明の著書より)ともあれ、新鮮な牛乳を東京の都心地に届けるには、できるだけ近いところに牧場があることが有利でした。本所の牛乳は、ずいぶん重宝がられたに違いありません。

第九話 大村益次郎の銅像

靖国神社にある大村益次郎の銅像は、上野の西郷さんの銅像とともに有名ですが、これが錦糸町で造られています。現在東京楽天地がある場所に平岡汽車工場があったことは、別紙の地図を見ていただくと分かります。明治44年9月5日の朝日新聞に掲載されたコラム「汽車物語」のなかでこの事実が紹介されています。平岡工場の製造資料のなかに銅像鋳造の記録はありませんが、志摩矢人のペンネームをもつ文人であった同社の長谷川取締役が書いた社史のなかに、平岡副社長の子息・平岡太郎が小学校低学年の時の思い出として語った次のような記述があります。「銅像ができた時、父が先頭に立ち、牛に引かせて納めるのを、私たち子供が大勢で後を付いて行ったものです。この銅像は、資料では東京砲兵工廠で造ったことになっていますが、平岡工場が下請けとして造ったものと思われます。」平岡工場は11年ほどで汽車会社と合併され、亀戸から貨物線が開通したときに、砂町へ移転しました。平岡工場では、およそ客車350両、貨車1250両を製造した記録がありますが、機関車は造らなかったようです。ちなみに戦後木琴奏者として有名だった平岡養一郎は、その一族に連なる人であるいうことです。

第十話 錦糸町の菓子街

昭和3年、区画整理のため、東京市の要請により、神田東竜閑町、大和町周辺の菓子製造業者とその関連業者の大部分が、当時は草茫々の荒れ地だった旧陸軍糧秣廠跡の現在地に移転してきました。これが錦糸町菓子街の起こりです。その時に錦糸公園も開設されました。この一帯は、昭和20年3月の東京大空襲で焦土となりました。戦後は、住民の不屈な復興精神のおかげでいち早く立ち直り、甘味不足の時代に、盛んに飴の製造が行われました。水あめはサツマイモを原料にしていたので、生産地の千葉県とは交通の便のよかった錦糸町界隈が飴の生産地・販売地として飛躍的な発展を遂げ、業者の数は数百軒にも達しました。しかし、菓子の製造がしだいに家内工業から工場生産へと移るにつれてその数を減じ。現在ではほんの数えるほどしか残っていません。

第十一話 本所停車場

明治27年(1894)、総武鉄道株式会社の始発駅として、「本所停車場」の名称で駅が出来ました。現在の駅の西に位置していました。こんどの再開発で、そごうデパートと東武ホテルの間に南北に通じる道路ができましたが、その江東橋側に植え込みのある小さな公園があります。そこが、本所停車場の最初の駅があったところです。その後、西側の大横川の傍らに駅の位置が変わり、さらに城東電車の小松川への線路が完成して、汽車工場の跡地に東京楽天地(江東楽天地)さらに反対側に白木屋ができるなど、「四つ目通り」の方向に町が発展していきました。そうして、旧駅の位置から東の方へ移動した現在の地に「錦糸町駅」ができたのです。明治30年(1897)には東は銚子まで、37年(1904)には西へ両国まで線路が延長されて、「両国停車場」が始発駅になりました。総武鉄道は、明治40年に国有鉄道となっています。なお国鉄総武線が中央線に連絡するのはずっと遅くて、昭和7年になって、ようやく「お茶の水駅」までが開通しました。

第十二話 両国高校

明治34年、京橋区築地3丁目にあった東京府立第一中学校の分校が府立第三中学校と改称されたのが始まりです。明治35年に本所柳原町1丁目に移転し、昭和11年には、四階建ての校舎が完成しました。18年、都制実施により都立第三中学校となりました。20年3月の東京大空襲では、校舎が全焼し、一時付近の茅場小学校に避難して授業を続けましたが、20年7月に校舎が復旧され元の場所に復帰しました。昭和22年、現在の区立両国中学が本校内に設置されましたが、23年に横網8番地に移転しています。23年、6・3・3制の実施にともない、都立第三新制高等学校となり、25年、都立両国高等学校に改編されて現在に至っています。昭和58年、いまの校舎が完成しました。小説家の芥川龍之介、堀辰雄、久保田万太郎、日本画家の川端竜子、杉山寧など数多くの芸術家を世に送り出しています。

錦糸小学校

大正7年6月、珍しい東京市営の太平尋常小学校として開校されたのが始まりです。当時の学級数は6つで、三部授業でした。また。夜間学級もありました。大正12年には学級数14、児童数610名の学校でしたが、9月1日の関東大震災で全焼しました。早くも10月1日から天幕を張って授業を再開、この年には、羽仁とも子らの尽力で昼食を給付した記録が残っています。昭和3年、本所区太平1丁目93番地に仮校舎が完成移転、翌4年には太平2丁目1番地に復興された新校舎が落成しました。後、町名変更があり現在の錦糸町1丁目となりました。

茅場小学校

明治37年、当時の茅場町(現在の江東橋2丁目)に設立されました。昭和4年、三階建ての洋風近代的な校舎になりました。児童数は1136名、学級数は21を数えました。東京大空襲のさいにも教室が焼けずに残り、一時、錦糸小学校の児童がここに通学し、当時の府立三中の授業もここで行われました。その後、錦糸小学校が修理されると、廃校になりました。その茅場小学校の跡地にできた墨田病院が、明治20年頃伝染病院として建てられ、戦災で焼失した本所病院の跡に移り、昭和36年、新たな総合病院が生まれました。都立墨東病院として下町一帯の中心的病院の役割を担っているのがそれです。

第十三話 消えゆく精工舎時計台

長い間。墨田区のシンボルだった精工舎の時計台が姿を消し、しみじみと時の流れの無情を感じます。服部時計店・精工舎のこの地での歴史は古く。石原町から現在地に移転してきたのは明治26年のことです。“SEIKO”のブランドは世界に轟いておりましたのに、いまでは時計以外の精密機械の製造が主力となり(エプソン、セイコー電子)。主力工場は長野県の諏訪市に移転してしまいました。亀戸にあった第二精工舎も、いまではショッピング・センターと変身しました。

第十四話 法恩寺

本所地区の古地図を広げてみると、まず、広大な敷地をもった法恩寺が目に入ります。この寺は、はじめ江戸・平河の地にあった小庵にすぎなかったのですが、永禄2年(1559)、太田道灌の援助により日住上人が建て直し、本住院と号する寺となりました、その後、道灌の孫に当たる太田資高が父・資康追善のために新たに寺殿を造営し、その法名にちなんで寺号を法恩寺と改めました。寺は、家康の江戸入府後、神田柳原に移転し、次いで谷中に移され、さらに元禄元年(1668)に現在に本所の地に定まりました。江戸時代には、12にも及ぶ搭頭がある大寺であったと伝えられています。いまも境内には太田道灌の墓碑があります。

第一話から第十四話までは、佐野 諒氏が錦糸小学校の創立80周年記念誌に寄稿された文章を転載しました

第十五話 ここはどこでしょう? 貴重な写真です

 

第十六話 すみだサマーコンサート ”YUKATA   de   オーケストラ”

錦糸町駅北口地区再開発に伴い、文化施設としてトリフォニーホールが計画され、新日本フィルハーモーニー交響楽団がここをフランチャイズとすることになりました。トリフォニーホール完成までの間、墨田区では新日本フィルハーモーニー交響楽団と友好記念事業として、オーケストラと区民との様々な交流の場を企画しました。そのイベントのひとつとして1988年8月(昭和63年)に錦糸公園噴水広場に特設ステージを設け、YUKATA de  オーケストラ;を開催しました。真夏の夜のひととき浴衣がけで、新日本フィルの普段と違った気楽な装いでのクラッシク演奏とニューヨークから来日したバリバリのミュージュッシャン4人を交えた渡辺貞夫グループによるジャズのサウンド合戦を楽しんでもらえる野外コンサートです。勿論無料です。墨田区から協力依頼を受けた錦糸三和町会では、数々の模擬店出店や会場警備に協力を惜しみませんでした。

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裏話 当時公園内では、原則アルコール類の飲食は禁止されていましたが、気楽にオーケストラに親しんでもらおうとして、飲みながらの鑑賞も許可されました。この時分渡辺貞夫さんはキリンビールのコマーシャルに出演されていましたが、氏の了解を得て地元のアサヒビールの缶ビールを危険防止と酒小売免許の関係からポリコップに移し替えて販売しました。最大1500本ほど売れました。焼きそば・焼き鳥・飲料水・アイスクリームも販売しました。売り子の町会の婦人部のみなさんは浴衣に赤いたすきをかけ雰囲気を盛り上げました。余談ですが当時のアサヒビールは業績不振に苦しんでいましたが、翌年のスーパードライ新発売を期に驚異的発展を遂げ、ついにはスポンサーにもなってくれました。当初の目的を達成し、平成7年8月のゲスト本田美奈子さんを最後にその役目を終了しました。

第1回 1888年8月17日(水)午後6:30~8:30

指揮 石丸 寛  演奏 新日本フィル 渡辺貞夫とそのグループ

曲目 「組曲スターウォーズより/ ジョンウィリアムス作曲」

「中央アジアの草原にて/ボロディン作曲」「ハンガリア舞曲/ブラームス作曲」

「パストラル/渡辺貞夫作曲」「Nice Shot」「TUMAGOI」「We are The One」

第2回 1889年8月17日(木)午後6:30~8:30

指揮 山本 直純 宮川 泰 演奏 新日本フィル鼓童+石川晶とカウントバッファローズ

曲目 「カルメン組曲」「美しき青きドナウ/狩のポルカ」鼓童「一閃」「三宅」「山唄」

「アフリカ組曲」

第4回 1991年8月19日(月)午後7:00~9:00

指揮 小野崎 孝輔  前田憲男とウイングブレーカーズ 猪俣 猛

第7回 1994年8月18日(木)午後7:00~9:00

指揮 服部 克久  ゲスト デューク・エイセス/斉田正子

曲目 「いい日旅立ち」「昴」「いっそセレナーゼ」

第8回 1995年8月22日(火)午後7:00~9:00

指揮 榊原 栄   ゲスト 本田美奈子

曲目 「スター・ウオーズ 」「シンドラーのリスト」