再開発と町の関わり

 

錦糸町駅北口に林立する高層建物群(アルカタワーズ)は、見慣れた風景となり私たちの日常に深く溶け込んでいますが、この再開発事業が完成し、今日の姿になるまでには幾多の困難があり、町がどう関わって来たのかを振り返ってみます

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1  昭和52年  1977/11/4   国・国鉄・都「錦糸町駅北口再開発計画試案」を発表
2  昭和57年  1982/5/13  東京都長期計画懇談会「錦糸町駅周辺地域を副都心」と位置づけ
3  昭和58年  1983/4/17  中曽根内閣「錦糸町及び大阪梅田国鉄用地の民活」を提唱
4  昭和58年  1983/6/5  錦糸町駅隣接国鉄用地再開発決定
5  昭和58年  1983/7/27  錦糸町駅北側国鉄用地再開発住民説明会 錦糸小学校にて開催
6  昭和58年  1983/9/9  錦糸町駅北側再開発対策協議会結成大会 錦糸小学校にて開催

錦糸町駅北口地区は、昭和43年の駅北側にあった貨物操車場の廃止、踏切の撤去により総合的な開発が模索され、地元住民の期待は大きかったが、最大地主(敷地の90%)の国鉄の消極的姿勢で具体的な進展はなかった。昭和58年4月、中曽根内閣の国鉄用地民活「都市ルネッサンス構想」発言が、再開発問題に火をつけた形となり、その内容は中高層の分譲、賃貸住宅を建設する内容であった。「NO3記載」  

最初の候補地に選定された錦糸町駅北口地区、新宿駅南口地区、大阪梅田貨物駅の中で、最も「実現の可能性の高い」地区とされ、同年6月には錦糸町駅北側用地活用計画検討委員会が発足した。そのメンバーは、国土庁、運輸省、建設省、東京都、墨田区、国鉄で構成され、事務局が国鉄事業局に置かれていた。この報道を受けて墨田区に対し、住民説明会の開催を求めた。この時点では、墨田区は具体的な計画を説明する材料を持ち得ず、住民の日照権等の問題にも通り一遍の事務的答弁しか出来ず、住民の怒りを買ったことになった。「NO5記載」

三和町会を始め、錦糸一丁目町会、町内にある各種団体(商店会・料飲組合・城東製菓同業組合・北口住民の会等)から成る錦糸町駅北側再開発対策協議会(宇井又三郎会長)を設立して、対応することになった。対策協の要望は、周辺地区の発展に資する副都心に相応しい文化的で、商業空間を備えた都市整備であった。NO6記載」

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7  昭和61年  1986/5/6  錦糸町駅北口地区市街地再開発準備組合 設立
8  昭和62年  1987/10/29  錦糸町駅北口地区市街地再開発計画案を発表
 9 昭和62年 1986/11/11 都市計画法第17条2項に基づき東京都並びに墨田区に意見書提出62墨都第206号
10  昭和62年  1987/12/5  錦糸町駅北口再開発対策協議会再結成大会,錦糸小学校にて開催
11 昭和63年  1988/1/14  錦糸町駅北口地区市街地再開発計画案を公示 都市計画決定
12  平成2年  1991/3/19  錦糸町駅北口地区市街地再開発組合設立   事業計画決定
13  平成3年  1991/3/28  周辺地区環境整備に関する要望書に対する組合回答 錦北組第376号
14  平成3年  1991/3/28  墨田区長の地域住民の協力とご理解とお願い  墨都開第503号

この錦糸町駅北口再開発は、墨田区にとっても、最初の大型再開発事案であり、バブル経済の狂乱による土地の高騰(建設業者12社が再開発入札利権を巡り民間地権者から周辺地域の時価の約5倍に昇る価額で土地を買い漁った)と、バブルがはじけた経済の低迷の中で、様々な難問を抱えました。この間周辺では東京楽天地の再開発が着手されたり、制限付きながらも、北口改札が開設、駅前にはバスターミナルも開設されるなど、再開発実現への環境が着々と整備され始めました。また暫定的な用地利用として、駅前にオレンジマーケットや住宅展示場も一時開設されました。

しかし何と言っても、再開発地域の大半を占める国鉄が、昭和62年4月1日に分割民営化され、JR東日本発足に伴う業務に忙殺されてか、再開発事業が開発権限を握る墨田区が主導するようになったことは、民間地権者や対策協にとっても幸いしたといってもいいでしょう。対策協は、都市計画法第17条2項により都及び区に対し意見書を提出、審議会から地元住民の意見を尊重するようにとの答申を得て、再開発当事者から住民代表団体との認知を得ることとなった。 NO9記載」

そして、計画の実現性が高くなるにつれ、町会の中の地権者(北口住民の会)は、対策協のメンバーから離れ、権利変換等の切実な問題解決のための勉強会を立ち上げました。

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15  平成5年  1993/2/5  対策協から再開発組合に要望書提出 ①
16  平成5年  1993/2/18  再開発組合から2月5日付要望書に対する回答書  錦北組第383号
17  平成5年  1993/2/23  再開発建設工事施行に伴う説明会 於錦糸小学校
18  平成5年  1993/3/2  対策協から再開発組合に要望書提出 ②
19  平成5年  1993/3/3  再開発組合から3月2日付要望書に対する回答書   錦北組第415号
20  平成5年  1993/3/5  錦糸町駅北口地区第一種市街地再開発事業の施行に伴う基本協定書締結
21  平成5年  1993/3/5  同上再開発事業の施行に伴う除去整地工事に関する工事協定書締結
22  平成5年 1993/3/12  同上再開発事業の施行に伴う基本協定書締結報告住民集会於錦糸小学校
23  平成5年  1993/5/13  対策協から再開発組合に要望書提出 ③
24  平成5年  1993/5/25  再開発組合から5月13日付要望書に対する回答書   錦北組第88

当初の業計画案では、昭和61年準備組合設立、「NO7記載」昭和62年都市計画決定、昭和63年再開発組合設立、4年余りの工事期間を経て、昭和66年(平成3年)事業完了となっていた。難産の末、平成2年3月「錦糸町駅北口地区市街地再開発組合」「NO11記載」が設立されたものの、民間地権者の財産権に絡む権利変換計画は、バブル崩壊後も、一旦高額になってから下落した地権者の土地評価額の算定で、納得させる数字を提示ことは非常に難しくなり、このため再開発組合は、当初計画の容積率600%から高度利用地区の指定を含め850%にして保留床を生み出すしかなかった。この保留床を買い取って参加組合員となった「そごう」は、後々開発事業のブレーキとなった。錦糸町再開発事業は、参加組合員等の賛意を得るためや作業手続きの簡便性等のため、「全員同意方式」を採用していたが、権利変換作業の大詰め段階になるとこのことがネックにもなった。ようやく平成5年1月になって、権利変換計画が認可・登記されることとなり、工事着工に向けて動き出した。。

対策協は、錦糸町北側地区再開発対策協議会として、当初再開発のあるべき姿を掲げて再開発当事者に要望してきた。「NO6記載」 対策協の関係者筋は、著名な建築家磯崎新事務所にモデル設計を依頼、日の目を見ることはなかったが、独自の代替案を提出したこともあった。この代替案は、少なからず組合側の成案に反映されることとなった。また当初の情報収集段階では、代議士・都議・区議の政治家に相談役に就いていただいたが、一部の政治家は自己利権を求めて暗躍した事もあった。再開発組合が設立されると、対策協は錦糸町北口地区再開発対策協議会と名称を代え、住民の被るであろう被害救済と地域振興のための具体的要望を出すようになり、政治家とは距離を置く一方で、平成4年6月には交渉過程での法的アドバイスの必要性を重視して、深沢綜合法律事務所と顧問契約を結ぶこととなった。「NO10記載」

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 25  平成5年  1993/6/29  対策協から再開発組合に要望書提出 ④
 26  平成5年  1993/7/1  再開発組合から6月29日付要望書に対する回答書 錦北組第128号
 27  平成5年  1993/10/13  工事協定及び環境協定締結に伴う説明会 於錦糸小学校
28  平成5年  1993/10/14  建設工事に関する協定書・周辺環境への影響に関する協定書及び付帯合意書締結
 29  平成5年  1993/11/14  再開発事業起工式・本工事着工

平成5年になると、再開発組合は今までの遅れを取り戻すべく、対策協に対し除去整地工事の取り決めを急ぎようになった。対策協は要望していた個別補償の金額確定には至らなかったが、今までの交渉における組合事務局の信義を信頼して、本工事までに解決する暗黙の了解のもとに基本協定を締結した。「NO19記載」「NO20記載」この間何度かの交渉を繰り返した結果、個別補償の範囲と金額の合意を得たので、住民説明会の承認得た後、本工事協定を締結した。「NO26記載」NO27記載」

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 30 平成6年  1994/10/26  掘削土及ぶ鉄骨の運搬車輛の出入り時間繰り上げの申し入れ①
 31 平成6年  1994/10/31  10月26日の申し入れに対する対策協の回答
 32 平成6年  1994/12/12  再開発組合から地域支援問題に関する協議について申し入れ
 33 平成6年  1994/12/12  再度掘削土及ぶ鉄骨の運搬車輛の出入り時間等変更案提示
 34 平成6年  1994/12/22  12月12日地域支援対策協議に対する遺憾回答
 35 平成7年  1995/3/20  対策協は、地域支援対策に関する具体案の申し入れ

平成5年11月の本工事着工以来、順調に工事の鎚音が響く一方で、再開組合は、参加組合員の負担金不払い問題という難問に悩まされていた。「そごう」が経営不振から進出断念を表明していたが、阪神淡路大地震の打撃が追い打ちをかけ、平成7年1月時点で負担金101億円を滞納していた。この事実を知った参加組合員「日本生命」は、集客の核となるデパート棟の見通しの立たないことを理由として、一時負担金493億円の支払いを留保してきた。組合は再三両社に対し、負担金の支払いを要請したが、日本生命は1月30日までにデパート棟の負担金403億円を除く493億円を支払うことで合意した。しかし第2工区のデパート棟は依然として見通しが立たず、大成建設等に建設資材発注を控えるよう要請する始末であった。第2工区の地下には、東京電力変電所と地域集中冷暖房設備が計画されていて、デパート棟の建設を見送ることは実質出来なかったのである。

一方で対策協は、個別補償問題は本工事締結時に解決を見たが、組合の要請により地域支援策問題は付帯合意書を取り交わすことで切り離してきたが、このような状況下で、地域支援策については全く暗礁に乗り上げてしまった。

同年5月業を煮やした組合は、墨田区に対し都市再開発法41条による前例のない、滞納処分を申請し区は差し押さえに向けた資産調査に入るという異常事態となった。この強硬手段は、「そごう」への新規融資を拒否し続けていた取引銀行団を動かし、同年9月になって、これ以上の経営不安を助長しかねないとして水島廣雄社長の個人保証を条件に融資を承認し懸案解決となった。

これを受け、組合側は三和町会と一丁目町会に対し世帯数に応じた地域支援金をそして各種団体には助成金を寄付することで決着を見た。

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 36  平成9年  1997/10  工事完了公告 アルカタワーズ・トリフォニーホール開業