千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後此の地を武家の下屋敷の敷地として、整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時舟運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より、此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。
その後、徳川幕府は明治政府に替り、従来の武家制度は廃止され武家屋敷も解体されて、農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも、此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。その後、政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設しその敷地内に此の稲荷社があり、陸軍省は敷地整理に際し、この稲荷社を取り払いし処、その後倉庫並びに周辺に再三火災が発生し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取り払ったままになっていた稲荷社に気付き、旧位置に再建して祀りし処、不思議にもその後火災等は全くなくなりました。大正十二年の震災には此の地一帯は、灰燼に化したが稲荷社には少しの被害を受けませんでした。
昭和三年七月十八日、復興局の手により創設された錦糸公園も開園となり、同じ頃神田より製菓業者が公園周辺に集団移転し、営業を開始した処早々より町内に火災多発して、町民が不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此の地に祀られてあった守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に、町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり、又商売繁盛、災厄消除等諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和二十年三月十日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。
昭和二十九年千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、その年より玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渉り工事を重ね、境内の整備を完了した次第です。昭和三十年五月十八日付けを以って右建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和四十年四月から墨田区の公園になりました。昭和五十年、千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
(趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より)